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スピリチュアル・シリーズ

『愛と恐れ』
   

 
恐れのないところには死がない

 あなたが空気を使い尽くしたら、その時は潜水から戻る時である。後ろにスリルのあることすべてを残していく。美しく太陽の輝く世界に戻るのだと分かっていても、それはがっかりするようなことであろう。もし、あなたがスリルや危険やその世界を放浪して歩きまわることにあまりに執着するようになると、あなたの人生の本当の源がどこにあるのかを忘れてしまって、源へ戻ることに抵抗を覚え、恐れるかもしれない。あなたが潜水から戻ることは、また生命に戻ることであって、失うことではないのである。

 愛と恐れは同じ一つのエネルギーの二極面なのである。恐れとか死は幻想であって、存在してはいないのだ。生命に存在することを止めさせようとしても不可能である。生命が止まるという幻想を楽しむことはできる。それがあなたが恐れとして経験することなのである。しかし、本当はあなたが恐れを経験するためのエネルギーは、生命のエネルギーと同じものなのである。

 あなたを恐れたり憎んだりするためには、私にとってあなたが大問題なのだということを認めなければならない。それを認めると、私はあなたが存在しているという事実を支えたことになる。これは愛の表現である。私があなたを恐れれば恐れるほど、あなたは私にとって大きな存在になる。あなたは私の人生のなかで、思い出のなかで、心のなかで、私の愛のなかで生き続けることになる。私はあなたに生命を与えているのである。ということは、あなたに愛を与えたのである。ただ、この生命が私に与える力をどのように体験するかを選択できるだけなのである。そして、あなたと私の間には愛も生命も存在しないという幻想も選択はできる。それが愛を経験する能力を奪うのである。しかし、恐れと死は幻想としてしか持つことができない。ただ生命だけが存在するのである。

無関心−−神聖なる無関心

 愛や生命の反対は無関心である。無関心とは無感覚を言い、無意識を言う。無意識であるということは責任回避であり、人生を生きるというよりも無視していることである。家庭で積極的な愛の表現や世話を受けられない子供は、この家庭内の無関心によって死に至る。子供にとって、忘れられるより、虐待されるほうがましである。少なくとも憎しみや怒りや傷つけられることは、その子が生きていて問題であることを認めているからである。大人も同じことをする。毎日これが辛いとか、ここが痛いと訴えて自分が存在することの大変さを主張するではないか。

 無関心の反対は神性なる無関心というものである。これは、物事をそれ自身とは異なったふうにしようとはしないで、そのまま受け取る受け入れ方である。それは無条件で、期待したり操作しようとはしない愛である。人々はこの神の無関心を恐れる。これは、大いなる陰謀に真っ向から対決するものである。なぜなら決して人に左右されないからである。

 神の無関心はあなたに何かするように要求することがない。それ自身があることを認知すること自体も要求しない。ある種の神と呼ばれる生命の源が私たちに与える愛である。彼は私たちが彼を憎み、恐れ、虐待し、忘れさえしてもそれに任せる。そして、それによって傷つくことがない。神の無関心はそれがそれ自身であることを許すのである。制限をもうけず、判断せず、要求もしないのである。無条件の愛である。値札のついてない愛であり、これこそが存在する愛である。それ以外は愛の幻想である。

真実と幻想をどうやって見分ければいいのか

 人は生まれたときから、経験する現実に意味付けする能力を与えられている。それには顔の表情とか言葉や動作をどう読み取るかの能力も含まれる。この能力は祝福として与えられたのであるが、しかしながら人類はそれを、現実のなかで生きることを止め、絶え間なく空想を創造するという災いの元にしてしまった。彼の創造した想像が真実であるという幻想とともに生き始めたのである。真実なるものにほとんど気づかなくなった。

 今という瞬間に生きた時、真実なるものだけを経験すれば、恐れや失望や死を経験することはない。これからしようとすることへの興奮や周りのことへの興味でいっぱいなはずである。しかし、誰かが怒りや叱責や反感を表明すれば、「ということは私を愛していないのだな」と自分のなかで言うであろう。この空想が、痛みや感情、拒絶や悲しみや失望を引き起こす。しかし、これはこの状況に対してあなたが言ったことであり、真実起こったことに対してあなたがあなた自身に言ったことであって、それがあなたに痛みを与えるのである。その状況そのものではないのである。私たちが感じたことというのは、私たちに本当に起こったことの結果ではなく、起こったことについて自分の心の中で言った(訳注‥セルフ・トークと著者は呼ぶ)ことの結果である。

 イエスの弟子であるパウロは、二千年前に、人が人生を見る時は期待や空想で見る傾向があると、多く書き残している。彼はそれを「暗いガラスを通して見る」と表現している。次のステップは、「顔つきあわせ」て人生をありのままに見ることだと語っている。彼は続けて、暗いガラスを通して見ることは「一部分しか見ていない」ことであるとも言っている。私たちは人生全体を見ていない。恐れや偏見や分別が見せることを許しているところしか、見ていないのである。これが大いなる陰謀のほとんどなのである。それが恐れを活発にさせ、私たちの人生の生命と愛の表現を破壊してしまうのである。人生に顔と顔をつき合わせて見れば、すべてに生命を見つけることができる。それは、ちょうど私たちがそうであるように、全体なのである。私たちが全的な存在であって、欠けているものなどないのだという知識があれば、私たちは安心できる。

錬金術の偉大なる秘儀

 どの瞬間をとってみても、人生は、受け入れられるか受け入れがたいかどちらかである。受け入れがたいということは、私は持っていないものを持ちたいと望み、自分の安全や生存や健康について心配していることである。人々は自分をもっと違う風に扱うことを願い、神がもっと違う風に自分を扱うことを願う。違う性格であったり、体であればと願う。私が受け入れがたいと思うのは、ある種の事柄が不公平であると信じているからである。バランスに欠けているか、優しさが足りないか、世界の何処かが間違っている。神様が何か間違えている。地球というこの惑星は究極の祭壇なのである。私はこの経験に取り組もうとした。ということは、もっとも聖なる祭壇に近づいたということである。この人生に入ってくる前に祭壇から必要な装備を持ってきたのだ。そして、(肉)体に入って、地球に乗り込んできた。

 私は自分が奉仕する祭壇と私の存在と経験の源と調和するために、生命そのものを見なければならない。神とここに創造されているものに言わなければならない。この場所も、この瞬間も、私にとって、神にとってすべて正しい。この地上のすべての人々がそのままで生きる権利を与える。人生をそのままで受け入れる。そのすべての源と調和することを喜んでいる。何か違う風にと願うことは、その創造主と私の創造主とに不満をいっていることになるからである。だから私はすべてをまさにそのままで受け入れる。そして、それと同じように人を励まし、勇気づけ、創造し、必要なときには調和を創造する責任も受け入れる。でも、そこにものごとが違う風にあってほしいとは望まないようにする。

 私は物事が違っているようにとか、私に影響力があるようにとか願わないであろう。私は物事をそのままに受け入れる。そして、それらがそう見えるままに創造したり、変化させたりするであろう。しかし、かつてこうであったとか、こうであるべきといった非難はしないであろう。錬金術の偉大なる秘儀とはあるがままに受け入れることであり、そのように受容することで次のステップをとることができる。

(第一章 ただ一つの力だけが真実であるより<抜粋>)

 
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