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カバラシリーズ カバラの知恵

いんど・いんどシリーズ 五〇年の経験を本音で語る 巨象インドの真実
   

 私(バーラティー・チョードリー・アーシャー)は一九二八年二月一日に、神戸で貿易商を営むインド人サハイの長女として生まれました。私が生まれた日は雪が降り、それに朝早く生まれたので、両親は私にヒンディー語でアーシャー、日本語で朝子の愛称をつけてくれました。
 その後一家は東京に移り、杉並に住んでいました。東京の私達の家は今も残っており、有名な女優さんが住んでいるとのことです。
 当時私は、学校は昭和女子大の女子高校に通いました。
 一九四三年、自由インド仮政府のスバス・チャナドラボース主席(通称ネタジー[指導者])が、大東亜共栄圏会議に出席するため東京に来ました。その時、私は父親と妹と一緒に帝国ホテルにネタジーを訪ねました。
 「自分も自由インド軍(Indian NationalArmy INA)に参加して、インドの独立に協力したい」と申し出ると、ネタジーが私に、「祖国の独立のため、君も一緒に戦えるか」と聞き返したことを覚えています。
 妹は健康が勝れなかったので、私と父がINAに参加することなり、台湾で約一カ月待機した後、爆撃機でバンコックに移動しました。その時、私は一七歳でした。バンコックでネタジーをまた訪ねると、ネタジーに「おー来たか。元気に戦えよ」と励まされました。その後私は、女性だけで編成される『ジャンシー・キー・ラーニー連隊』(“Janshi ki Rani Regiment”) に配属されました。
 バンコックのINAは総勢三〇〇〇人でした。そのうち女性連隊は五〇〇人で、看護隊と戦闘隊に分けられ、私は戦闘隊に所属しました。バンコックで六ヶ月間訓練を受けた後、ビルマ方面の作戦に加わりました。バンコックからラングンまでは一カ月を要し、悪天候の中を徒歩での作戦には非常な困難が伴いました。
 雨季を厭わずに強行された作戦は失敗に終わり、私達はラーングーンを捨ててバンコックに撤退しました。
 INAと日本軍の間には対立があり、その原因は、敬礼を先にするしないといった些細なことでした。
INAと日本軍の兵士の間に、ごたごたがあったことは否定できません。また、INAの中にあれこ詰まらぬ告げ口をする者がいたことが、摩擦を生んだのも事実でした。
 その後、両軍の上層部が話し合った結果、誤解が解消し、我々は日本軍と肩を並べて戦いました。 
 戦争終結に際し、ネタジーはINAの将兵に各自の故郷に帰るよう勧め、女性連隊の私達隊員にも、家に戻っていい家庭を作るよう求めました。
 しかし終戦直後のことでもあり、私は東京に戻る術もなく、父とともにバンコックで英国官憲の監視下で捕虜生活を送ることを余儀なくされました。


 
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