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スピリチュアル・シリーズ 【カバラシリーズ第一巻】

『カバラ入門』─生命の木─
   

ゼブ・ベン・シモン・ハレヴィ著/松本ひろみ訳
ISBN4978-4-915497-89-6 C0014 
四六並製 初版第1刷/2002年11月 初版第5刷/2011年9月
2800円+税
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ユダヤ正統派カバラの待望のやさしい入門書。
カバラ(生命の木)は日常生活の悩みや不思議、運命さらに宇宙の神秘と働き、政治・経済まで解き明かす。人生のテキスト本。



【目次】
1 概論
2 歴史
3 非存在
4 閃光
5 木と人間
6 木と神々
7 四世界
8 三つ組と八つ組(オクターヴ)
9 小径


10 練習
11 実習
12 議会
13 神と富
14 恋愛事件
15 誕生−人生−死
16 時
17 惑星地球:ある試論
18 人間
19 目的


 
1 概論

 生命の木は創造の図である。宇宙のなかで働いている原理を客観的に表した図表である。〈木〉の形を見ると、神聖な所から最も低い世界へ、またその神聖な所へと還流していく力を示していることが分かる。そのなかにすべての支配の法則と相互作用の法則が含まれている。それはまた『人間』の全体的な、深い理解でもある。

 相対的世界というのは二極のあいだを行ったり来たりしている。『全』であり『無』である。両極のあいだを行き来する軸は『無』とも『全』とも見える。その両方が『創造された世界』とは異なる『絶対』の入口になるものである。ここに私たちは、普遍的な真理を手にしたことになる。ほかのすべては、真理の探究者にとって幻影である。それは成立しまた崩壊していく宇宙の円環のドラマであり、最も高い精妙な世界の反映と粗雑な物質界の、最も緩慢な動きと変化をも含んでいるのである。

 『絶対』は創造された世界(創造界)と直接接触することはないが、宇宙の母体から浸透し、それ(創造界)を支えている。それはまたすべての音の背後にある静寂のようである。この否定形でしか表現しえない真実なしには、何ものも存在しえない。光なくして影が現れないのと同じである。ここ相対の世界にあっては、私たちは粒子と波動のなかを動き回っている。ほとんどの時私たちは、触っているものは常にいつかは形を失い、見ているものが本当にそこにあるわけではない、ということを考えずに生きている。確たるものは見せかけであり、『無』の仮の姿である。私たちにとって見慣れた姿に、一時凝固しているだけである。私たちは、いつも変化し続ける地球と呼ばれる景色のなかの旅行者である。

 創造界(創造された世界)は創造者から隔たっている。それは現代のハムレットの劇がシェイクスピアの時代のものとは遠く隔たっている以上に掛け離れている。しかし、『創造』は作者の手を感じさせ、いかに役者が自分なりに演技しても、劇そのものに作者の考えのエッセンスは残っているものである。演劇から類推できるとおり相対の世界にあっては、主人公と脇役が一連の背景のなかでバランスをとりながら、ドラマチックな出来事を劇として展開し、構成しながら演じていく。役者はそれぞれの状況のなかで色々な演技をするが、登場する人物の力関係は非常に微妙である。このそれぞれの関係は〈生命の木〉として表すことができ、それを確かめるために与えられた状況として顕れる。その状況の参加者と、その人自身の本当の位置が明確になるのである。

 〈木〉は相対的な世界の模型である。それはすべての世界を象り、そのなかに秩序体系を表すものまで含んでいる。またどんな組織であろうと組織まがいのものであろうとみな〈木〉の模倣である。人間がその代表的な例である。人間はマクロコスモスのミクロコスモスである。そのあり方は彼の頭上にある宇宙のミニチュアであり、どんな細かい点を取り上げてもそっくりそのままのレプリカなのである。人はこの物質界のなかを動き回り、原子と遺伝子と細胞ででき上がっているのは真実であるが、精妙なる〈形成界〉にも加わり、意識的創造を手伝うこともでき、神性にも届くことができる。

 人間が『創造』のイメージであるなら『創造』は創造主の反映である。この類似性から、〈上〉にあるものを見ることによって〈下〉にあるものを学ぶことができ、〈下〉にあるものを確かめることで〈上〉の世界の、通常の私たちには見えないものを見ることができる。〈生命の木〉を通じて私たちは客観的な洞察と、知識を与えてくれる鍵を手に入れることができる。

 鍵とは、宇宙の上でも下でも内でも外にでも存在する平衡の原理である。本書では〈生命の木〉の起源をたどり、それがいかに人に閃きを与え、論理的に考えるための公式を与える力があるかについて語ろうと思う。その考え方の発達を追いながら、それがどのような事象にも適用できるという点も見ていきたいと思う。

 〈木〉の働きをよく見ると、現象のあらゆる解明が織り込まれているので、その図にすべてが反映されているのがよく分かる。この私たちが見ている宇宙は最も濃密な物質界であるが、創造主は存在しているからである。

19 目的 

 人はこのカバラを学ぶ目的は何かと問うのではないだろうか。生きていく上で、一体、何が重要な点なのであろうか。考える人にとっては明らかに、人生は学ぶ場である。知性ある人はこれを素早く受け入れる。自然のままに育った素朴な人であれ、教育をしっかり受けた人であれ知性ある人は、あきらかに法則に反していることをくり返したりはしない。

 多くの人は、教育や社会習慣を通じて霊的原理と出合うことになる。しかしこれはしばしば、まったく表面的な練習による物真似にすぎないことがある。つまりそこに見られるものは、何か深いものの殻にすぎなくて、深いところにあるものは忘れ去られている。これは原理の表面の字句だけを守秘してきたからである。

 どの宗教にも言えることである。単に父のやっていることを表面的に練習して追随していくだけでなく、もっと内面的に成長したいと願っている人は、自分の所属する文化の伝続が完全であれば、それを見直すことができる。そしてどの宗教でも言っていることには共通するものがあることに気づくはずである。これが普通、人生の問題に非常に明確な方向をあたえてくれるはずだ。

 誕生のための懐妊があり、魂がこの肉体の領域に降りてきて、時が流れ、死ぬとまた違う王国に戻っていくように思われている。しかしそれは、私たちが個として育つように作られているわけではないからである。(自然)が関与する限り私たちの身体は完全に成熟していくが、(自然)は惑星地球の意図するものにのみ関心があるのである。

 私たちはそれぞれ個々に選択権を持つ。蜻蛉が次の世代を作るという生物学的、有機的献身の後、子孫を作ったら死ぬようにただ死ぬ道をとるか、魂として成長するという道を採ることもできるのである。

 どの男女もこの可能性を持っている。この魂の成長という道を採らない人は、私たちが何度も何度も生まれてくることに疑いを持っているのである。この輪廻転生の考え方はどの伝統でも言われていることである。残りの、成長を望む非常に少数の人にとっては、人生が提供する教えや学びが非常におもしろくなるというわけである。必ずしも学んだものすべてが自己や、地位や、所有物と関係していないことを理解した人は間もなく、自分の個人的立場は自分の内側の状態の正確な反映であることに気がつく。

 また最初は良く見えたり悪く見えたりしていたことが、どんな時でも最終的には利益になるよぅに組まれていることが分かるはずである。偶然の法則に支配されていると理解し、これは運命(fate)だったのだと理解するようになって、次にその人のタイプ(性格)にもよるが、いや偶然だけではないというように考えが変化していく。そして人が自分の状況を理解するようになると、それはつまり自意識の三つ組に至ったことなのだが彼は、人生の機械的性質(偶然性)や、彼の存在の宿命的くり返し(訳注 輪廻)を変えるようになるのである。

 この時点から、その人は運命(訳注 destiny 自覚的に進むための方向という意味)の可能性を持つことになるのだ。つまり人間を支配している一般的な法則から自己を解き放つのである。自分自身を発達させ、絶対の意志を受け入れるようになると、人生は広大な宇宙のドラマであり、自分自身はそのなかでの俳優であるという風に見なすようになる。

 『絶対』を受け入れた人の主なる違いは、どのような状態にあってもその人が自分の役割を理解し、ティフェレット〈美〉で目覚めている時は何がどうなっているのか、何はすべきでないのかが見えてくるようになることである。この点で彼は、ますます彼の〈精霊〉との接触が盛んになる。ここで彼は特別の課題を遂行するために選ばれたことになる。これが運命(destiny)なのである。

 この仕事を(意志)のもとに成就していくと彼は、ほかの人にも、惑星自身にも導かれていくようになる。それは「千夜一夜物語」でアラジンが銅と銀の部屋から出て、金の部屋という輝く宇宙の知性を通っていくように語られているのと同じである。ここで、この〈物理的世界〉を型取っている形の後にある、創造的過程を眺めるようになるのである。この向こうに彼の最後の部屋がある。そこには魔法のランプが掛かっている。子僕だったら、そのような宝物をほしがらない子がいるだろうか。

 これが最も実際的な〈木〉の使い方である。ほかのどんな人間や組織を学ぼうとも、私たち自身との関係と、私たちの人生に当てはめて考えることが必要である。すべての人間は誕生と同時に、イエソド〈基礎〉を中心に置くホッド〈反響〉〜ネッツァ〈永遠〉〜マルクート〈王国〉の一番下の大きな三角形で生きることを始める。イエソド〈基礎〉を中心にして、三つの小さな三つ組がある。人によって、どこに強調があるかによって違うが、その三つが、その人の活動が前頭葉、中頭葉、後頭葉のどこが優位であるかを示し、その人が人類の三つの大まかな区分のどこにいるかをも示す。

 つまり頭か、心か、内臓の三つのタイプである。地球についての章でも言ったが、大部分の人は本能的である。この普通の生活で使われる知的、情緒的、本能的という言葉のほうが、明確に捉えやすいかもしれない。これらほとんどは下の大きな三つ組に関係しているのである。であるからホッド〈反響〉〜イエソド〈基礎〉〜マルクート〈王国〉の三角が優勢の人は知的と言われ、言うならば、よく働く大脳を持っているというわけである。

 ネッツァ〈永遠〉〜イエソド〈基礎〉〜マルクート〈王国〉が強調されている人は見分けやすいので、体主導型とか、本能的人間と言われる。ホッド〈反響〉〜ネッツァ〈永遠〉〜イエソド〈基礎〉人間は、しばしば感情的と思われていて、まずフィーリングで反応する傾向にある。これらはどれが上ということはない。どれも(木)のほかの部分に関係しながら、機械的な周期に取り込まれている状況である。

 人間は潜在的に偉大なる思想家、詩人、冒険家になる力を持っている。しかし目覚めてなければ皆、ほかの夢想家と同じである。このタイプは『目覚めた眠っている人』と言われたり、1、2、3(図22参照)の数の人とも言われている。この人たちは自分自身(自己)に気づいた途端に、上のホッド〈反響〉〜ネッツァ〈永遠〉〜ティフェレット〈美〉の三つ組に入る。しかしここで彼は、やりやすいのでついしてしまうのだが、日常の退屈なくり返しと、肉体的エゴの心の世界に、つるっと戻ってしまう。

 もし努力をし続ければ、高いところにあるとは言え、すでにうっすらと彼のなかに存在するゲブラ(判断)〜ヘセッド(慈悲)〜ティフェレット(美)の三つ組、自己意識の三つ組に、時としてたどり着く時がある。これがその人の目覚めた魂に、新しい力をあたえることになる。その(精髄)を中心に置いた覚醒意識と、自己意識が活発なところが、発達する人間の、またそれぞれ4と5(図22参照)の人間の印である。(木)のこの地点にたどり着いた人にとって、様々な可能性が開かれる。地上に存在することの絶頂を極め、判断と思いやりを以ってこの(自然)の世界を見渡し、見下ろし、肉体世界を離れることなく上をも見て、超自然界を理解することができる。もし恩寵があれば6(図22参照)の人になって奇跡をも行うところまで来る。

 キリスト教の言葉で言えば、そのような人はティフェレット(美)という太陽の位置に立つ。ケテルに父、そのあいだに聖霊 (Holy Gost)がダアートに位置する。知識という聖なる霊(Holy Spirit)によって祝福を受け、人間のもっとも高いレベルに到達して、神的なものに吸収される。彼の来たところに帰ったのである。この人たちこそ人類の偉大なる人であり、イヴという魂とアダムという身体を持った霊が、パラダイスと天国を再び得ることを手伝っているのである。

 であるから、これが私たちの目的である。(生命の木)は、人が創造主に届くための意識のはしごである。人は、完全な服従を以って、左の柱を登ることもできるし、完全な自由で右の柱を登ることもできる。どちらの道も、偉大な努力と規律が必要である。簡単なのは中央の平衡の柱を登ることである。それは、絶対服従も、まったくの自由も要求しない。そしてそれぞれが、それ自身の誘惑と困難さを持っている。

しかし中央の柱はまったく別物である。機能というより、意識と関って、天より直接助けを受けられる。必要なことは練習と、バランスにたいする良い感覚である。〈木〉の両側である右も左も見向きもせず、それを参考にして人生そのものを彼の内と外、上と下の経験を満たすものとして使い、時満ちて故郷へ帰るまで、中央の三角を一歩一歩上がっていくのである。

(生命の木)は(絶対〉と、宇宙と、人の類似である。その根は地球の下深く貫き、一番上の枝は天に接する。人間は、天と地が出会う地点であり、創造主のイメージである。完全ではあるが理解されないミニチュアの〈木〉であって、天使より低いとは言え、自分自身の枝を高く登ることを選び、究極の果実を得ようとするものである。

 
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