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トランス・ヒマラヤ密教叢書

『神智学大要』第四巻コーザル体(下)

 
第二十二章 渇望――生まれ変わりの原因:トリシュナー

トリシュナーは宇宙意志

 われわれは今やコーザル体の性質、機能、成長と発達との研究を事実上終了した。このようにして、魂【エゴ】のいわば形態の側を学習してきたので、今度は意識を持った、機能する存在としての魂【エゴ】自身についてさらに理解を進めることが必要である。

 本章では低我(複数)と魂【エゴ】との関係より始めることにする。このことは事実上は生まれ変わりの生命の側の研究ということになり、その第一歩がトリシュナーTrishna(梵語・渇望)の研究である。というのは渇望こそ魂【エゴ】が生まれ変わりを求める第一の原因であるからである。次章ではもっと詳しく生まれ変わりの形態の側すなわち、そのメカニズムを扱うことにする。

 その次には低我に対する魂【エゴ】の態度のうち他の側面を扱い、その後で、自己本来の領域(コーザル界層)内にある魂【エゴ】の生活を研究してゆく。

 生まれ変わりの第一の、根本的な原因は宇宙意志である。これが魂【エゴ】に刻印されて現象化への渇望(欲望)となって現われる。この渇望(欲望)に随順し、かつ、魂【エゴ】はロゴスの行為に倣【なら】って下の界層(複数)に自分自身を注ぎ出すのである。

 この渇望(欲望)のことをサンスクリットではトリシュナーTrishnaといい、パーリ語ではタンハーTanhaという。それは具体化された生活への盲目的な渇望(欲望)であり、魂【エゴ】が(1)自分自身を表現し、(2)生きていることを意識させ感じさせることのできる唯一の源である外部よりの印象や衝撃を受けることのできる場所を見出そうとする渇望(欲望)である。

 これは普通の意味での生存欲ではなく、むしろ一層完全なる現われ方に対する渇望(欲望)であり、もっと余すところなく生々【いきいき】と活動していることを実感したいという渇望(欲望)であり、周囲より発するあらゆる可能な行動にあらゆる界層で感応する力ともなるあの完全なる意識に対する渇望(欲望)であり、それによって魂【エゴ】は完全なる同情すなわち、共感に達することができるのである。

 後で詳しく見てゆくが、自分の界層にいる魂【エゴ】は完全に意識している状態よりはほど遠いがしかし、現在目覚めているだけの意識だけでも大いなる歓喜を感じており、それだけにもっと生命を表現したいという一種の渇望(欲望)が目覚める。事実、より豊かなる生活に対処する世界の大いなる要求の背後にあるものは魂【エゴ】のこの渇望(欲望)なのである。

 人間を駆【か】ってこの世に戻して再び生まれ変わらせるのは外部からの圧力ではない。彼はこの世に出て来たいから出て来るのである。戻って来たくなければ戻るはずがない。しかし、世界が彼に何か与えうるものがあり、それに対する渇望(欲望)が残っている限り、彼は戻ることを欲する。このようにして魂【エゴ】は自分の意志に反してこの苦悩の世に押し戻されるのではなく、この世に対する自分自身の烈しい渇望(欲望)によって戻ってくるのである。

 肉体に譬【たと】えをとってみよう。食事をとり、それが完全に同化されると肉体はもっと食物を欲しがってひもじくなる。何も誰かが無理に彼に食べさせるわけではない。自分で欲するから食物をとり、それを食するのである。同様に、人間が不完全である限り、この世が提供しうるものすべてを同化して完全にそれを活用し、もうこの世に望むものは何もないというところまで達していない限り、彼は戻って来て生まれ変わるのである。

 周期性という普遍法則には幾つもの現われ方があるが、トリシュナーTrishnaもその一つと考えてよい。密教哲学では、この法則は宇宙の発出(顕現)と再吸収(還元)、すなわち、ブラフマーBrahma(梵)の昼と夜、すなわち、また「大いなる息」の呼息と吸息、とにまで及ぶものとされている。

 故に、ヒンドゥー教徒は欲望という神を顕現への衝動として描いた。「カーマ(欲望)は『リグ・ヴェーダ』(一〇・一二九)では創造に至らしめる感情を擬人化したものである。彼(カーマ)は一者を唆【そその】かして、純粋に抽象的な原理より顕現した後に創造に至らしめた最初の動きである。「欲望はまず初めに“それ”の中で起きた。これが心の最初の胚種であり、それが実在と非実在とを結びつける絆【きずな】であることを賢者たちはその知性で探った結果発見したのである」(『密教【シークレット・ドクトリン】』第二巻、一八五頁)。カーマ(欲望)とは根本的には活発な感覚的な生存、生々【なまなま】しく感じられる存在、烈しく動乱する激情の生活への憧憬【あこがれ】である。

 この感覚への渇望に霊的智慧が接触すると、第一の反応としてこの渇望を強化する。「偈」【げ】(1)のいうように、「彼ら自身の精髄より彼らは欲望【カーマ】を満たした(すなわち、強化した)」(同書一七〇頁)。このようにして渇望(欲望)は宇宙としても個人としても生まれ変わりの第一原因となり、根本の渇望(欲望)が個々の渇望(欲望)へ変異してゆくにつれて、それは「思考者」を下に降【くだ】して地上に鎖付け(縛り付けること)、時をおいてはまた彼を引き戻して再生(生まれ変わり)させる。ヒンドゥー教や仏教の聖典にはこの真理の教説が数多くあることはいうまでもない。

 ブラフマーBrahma(梵)を実現するまでは常にトリシュナーTrishnaがつきまとう。獲【え】てきたものをすべて同化して自分の一部にしてしまっても、やはりトリシュナーTrishnaは起こり、新しい経験を求めて外へ駆り立てる。

 それは初めは外的な体験への渇望(欲望)である。トリシュナーTrishnaという言葉は普通はそういう意味に使われる。しかし、この外【ほか】にもっと激しい渇望(欲望)がある。それは次の句によく現われている。「吾が魂は神に渇く、然り、生ける神にぞ渇く」。これはその所属する「全体」に対する「部分」の渇きである。もし部分が全体から出てきたものでありながら全体との繋がりは決して失わないと考えるならば、そこにはいつもその部分を元へ戻そうとするある種の引き戻す力がある。聖なる大霊は神性の外【ほか】には恒久不変の満足を見出しうるものではない。トリシュナーTrishnaの根源は実にこの不満足、この探究欲である。これこそが探究の終わりに達するまでは人間を天界【デヴァチャン】、その他あらゆる状態より引き出すものである。

トリシュナーの抹殺と進化

 なるほど人間がある種の低い解脱(モクシャmoksha)――輪廻転生よりの一時的な解脱――を得ることは全く可能である。インドのそれほど発達もしていないヨギ達の中には、この世に属するあらゆる欲望を故意に抹殺する者もいる。この世は移ろいやすく、難儀苦労までして生き永【なが】らえる価値のないことがわかれば、人間は、専門的には「地を焼くヴァイラーギヤvairagya」と呼ばれる形のヴァィラーギヤ→ツメルvairagya(2)に達するというのである。このような考え方によって完全な解脱に達することはないが、結果として部分的な解脱をもたらしはする。『ウパニシャッドupanishats』(3)の一篇にいうように、人間は欲望に導かれてこの世に生まれる。したがって、この世のもの一切に対する欲望を抹殺してしまえば、彼はこの世から去って二度と生まれ変わることはない。そして彼はある世界(ローカ[loka])に移る。そこは永久不変の世界ではないが、その中に彼は長年月の間滞在する。そのような世界が幾つかあって、しばしば特定の聖像の崇拝や特殊の瞑想等と結びつき、人はそのうちのどれかに移って不特定期間そこに留どまったりする。瞑想に相当献身してきた人々の場合、彼らの願望は全く瞑想の対象に向けられている。したがって、彼らは彼ら自身の願望に導かれてメンタル界層に留どまる。

 そのような人々はこの世の苦悩より厭離【おんり】してはいるが、究極には何らかの一つの世界に、この世がまだ続いていればこの世に、またはこの世に似た世界に戻り、そこで彼らは進化の努力を放棄した点より再び進化を再開するのである。したがって、苦痛は一時延期されただけであって、厭離【おんり】するだけマイナスになるのである。

 欲望は「抹殺」することができるからこそ密教の教師(マスター)達はその代わりに欲望の変性を処方するのである。抹殺されたものは再び起き上がってくる。しかし、変性されたものの変化は永久である。非常に不完全な進化状態にある人が欲望を抹殺すると高度の進化を遂げる可能性もすべて同時に抹殺してしまう。なぜならば、彼には変性すべきものをすべて失ってしまったからである。今生に関する限り欲望は死んだのである。ということは、感情と精神との高度なる生活はすべてしばらくは死滅した、ということである。

 偽りの厭離【おんり】は何らかの種類の失望、葛藤、疲労に原因する離反、「低いもの」よりの離反であり、低い物事に対する真の無関心は高度の生活に対する願望より生じ、全く違った結果を生ずる。

 『沈黙の声』には、魂【エゴ】は「上に引き寄せる点(複数)」を求め、欲望を抹殺することによって人は生活を味わうのを一時的に取り止めるだけであって、味は依然として潜在し、やがて然るべき時に蘇【よみが】える」と語られている。

 厭離【おんり】することによって欲望を抹殺した人が特別に知的なあるいは道徳的な取り柄のない人であれば、彼は既述の通りこの世を捨て、全く気楽な状態にはあるが、実際は自分自身にとっても他人にとっても何の役にも立っていないのである。

 ところがこれに反してその人が相当に「道」を進んだ人であれば瞑想のある段階に達して、非常に大きな価値のある精神力(複数)を発揮するようになっているかもわからない。彼は無意識のうちにさえ世界に影響を与えることができ、大師方が世にあってお仕事をなさるために汲み出しておられるあの精神エネルギーおよび霊的エネルギーの大いなる流れの中で助力となっているかもしれない。この大いなる流れとはニルマーナカーヤ方(本叢書第三巻『アストラル体』[下巻]第十九章参照)によって霊的エネルギーで満たされた貯源のことである。

 奉仕の精神で満ちたこの種の方はこの特定の「道」で働けるような世界に移る。それはほぼコーザル体の界層の世界と思われる。彼はここに文字通り長年月住し、他の人々を助けるために集中した想念の流れを注ぎ出し、そうすることによってまたこの霊的力の貯源の補給に貢献しているのである。

 

〔訳註〕

(1)『密教【シークレット・ドクトリン】』の中の「偈【げ】」文。

(2)一切の欲望を断つこと。

(3)奥義書。

 
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