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精神世界専門誌・季刊

『とんぱ』3号

 
カギュ派(口伝相承)の瞑想法とその体験

ラマとの出会い一般的に、チベット仏教の修行をするなら先生(ラマ)につき、その宗派の教えを授けていただき修習していくのですが、まずは心掛けからスタートします。この修行に対する取り組み方と心掛けは、非常に重要なのですが、それと共にラマとの関わり方がとても重要なのです。心掛けに関しては本誌でラマ・ソナムが「ロジョンの瞑想」について書いてくださっていると思うので、そちらを参考にしていただくとして、先生(ラマ)について考えてみましょう。

 ラマと関わり、教えを学んで行くうえで、私たちは沢山の荷物を持ちすぎています。過剰な期待、教えの物質主義的な捉え方、自己欺瞞、等がそれに当たります。私たちは教えを授けてくれるラマを探すことから始めますが、最初からラマや教えに過剰な期待があり、私たちの教えに対する取り組みを自ら阻害します。修行を深めていくとラマを通して仏教の教えが目の前に顕現することを知りますが、最初に私たちはラマに偉大な存在であることを求めます。全知全能的で、神々のように神秘的で、高貴で、老賢者の様で、安心して私のすべてを委ねることのできる人でなければ、私は信頼して自分を開くことはできないと考えてしまいます。

 そんな期待感を持ってラマを探し、説法会やリトリートや勉強会に参加し、ラマを観察していますと、段々失望感が生まれてきます。「自分が想い描いていた人物像とは違う。実際はそんな素晴らしいラマなどいないのではないか? 説法会等では威厳を持ち、優しさに溢れいっも微笑んでいると思ったけど、一緒に食事をしたり出掛けてみると、極普通のおじさんではないか。こんな普通のおじさんにすべてを委ねることはできない。」また次のラマを探しはじめる。しかし、今度も期待通りではなかった。幾人かのラマと会っても、身近に接すると自分のイメージに合った人はいない。「海外にはダライ・ラマのような人がきっと沢山いるのだろうけど……」

 この失望感はラマ探しのゲームに転化します。

 「自分はピンとこなかったけれど、あのラマの評判はすこぶるよい。きっと自分がそれを見抜けなかったんだ! 段々と自分の.判断に自信がなくなっていく。しかし、教えの内容は伝統的な素晴らしいものだ、お近づきになつて修行をしていればきっとラマは本当の素晴らしい本性を現して、私の判断が間違っていないことを証明してくれるに違いない。しかし何カ月たってもラマはその偉大な本性を現してくれない」。

 ラマ探しは神経症的なゲームとなって行きます。

 「きっと私の功徳が足りないのだ、修行が足りないのだ、帰依が足りないのだ」と、自分の信念や選択の正しさを証明できるものを探すことに懸命になって行きます。一生懸命に修行するけれど、すべてが自分の正しさの証明を得るための代償行為になっていきます。当然、段々修行がつまらないもの、ひどく退屈なものに感じられてきだします。

 十分に精神性と関わってきたラマなら、なおさら弟子集めのために弟子に媚びたりしません。開かれた精神に利他の押し売りは不要です! ラマには広い土地や豪華な家よりも、人間が本来持っている歓喜や平安が素晴らしいことだと知っているのです。ラマは常に開かれているのです。我意識の囚われがない人には、守るものがないのです。プライドも名誉も所有物も”捨”の実践を修習している人には、守るべきものではなくなっています。

 心を閉じ、開かれた関係性が保てないでいるのは私たちの方に問題があったのです。もし私たちが真に心を開くことができるならば、自然の状況としてラマとの真の関わり方がはじまっていきます。

 教えを受けていく中で、日常の人生の価値観と仏教の提示する価値観に遠いやズレを少しずつ感じて行きます。ラマから授かる教えはトロフィーのように陳列棚のコレクションになり、日常の自分は全く教えとは関係のない生活を積み重ねていきます。自分が仏教を学んでいることを意識するのは勉強会やプジャ等のイベントがあるときだけになってしまっています。教えは、本来私たちは非常に豊かな存在であることを教えてくれているのに、私たちは自分自身の心の中身には見向きもしません。そしてネガティプな思考が起こり自分の心が貧困であることを認識するだけで終わってしまいます。

 ”私にはこれは実践出来ない” ”この教えは理解できない” ”戒律が守れない”と。しかし、ラマの身・口・意、つまりラマの行為すること、話すこと、考えることは、たとえどんなことでも教えの実践そのものなのです。ラマには教えと生活が別のものではないのです。心掛けで提示される教えは、私たちの世界観を形成する最も重要な教えの部分です。

 その心掛けの教えの中には苦・集・滅・道といった仏教の基本的な考え方や、私たちの、ものごとを認識する基準となる仏教認識論である量論や、先にあげた四無量心の心掛け、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧といった六波羅密の実践を踏まえた日常生活、利他心や帰依、慈悲と空性、つまり、自分との関わり方とエゴの非実在、といった様々な仏教の基本的な教えが網羅されています。またラマはその教えの体現者として存在し、釈迦牟尼仏陀から、若しくはもっと根元的な存在から脈々と続く教えの伝統を担っているのです。ですからラマ (先生)は仏陀であり、教えであり、アドバイザーであり、法友であり、精神の友なのです。

 
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