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女性のためのスピリチュアルマガジン

『Womb ウーム』創刊号―とんぱ別冊―

 
●生活の中でらくらくできる─広池ヨーガ健康法─

∃−ガを始める前に−語録から−

【行う意味】

万能の人もいないかわりに、ひとつもできない人もいません。ポーズのできる、できないの可能性は神が与えてくれるもので、人はそれができたら素直に喜んでいれば良いのです。ヨーガには血液が滞っているところ、身体の悪いところへすぐ響く速効性があるので身体が弱ったり、病気になってから始めても決しては遅くありません。そのほうがヨーガの良さが分かります。

【心に留める】

ヨーガで悟りを開こうと思うと身体を壊します。しかしヨーガにより身体ができてくると、自然と悟りが開けます。ヨーガを楽しみ、持続するためには日々の生活の中に取り入れてください。習慣としてシャバアーサナ(死体のポーズ)をはさんで、心臓から遠いところからやるようにしてくださ

【楽な正しい姿勢】

普段立っている時、座っている時の正しい姿勢はみぞおち(胃のあたり)をゆったり広げ、胸をゆるめて肩を下げます。両足を肩幅にして平行に立つ、または座ります。一見だらしない格好のようですが背骨を垂直に立てることによって、地球の重力の抵抗がなく、どこにも力が入っていず身体がリラックスできます。とくに女性にとって一番楽で健康な姿勢だそうです。かなりの時間保っていられます。

この姿勢を保ってみると《古》の人類に戻ったみたいですが、どこかで《天》と繋がったような気もします。慣れるまでは正しい姿勢を保つことは意外と難しいものです。横座りはもちろん厳禁。

【ポーズを作る】

年代によってできるポーズとやりにくいポーズが変わってきます。気質や体質によっても得手、不得手が大きく違ってきます。ですからポーズを作ることは自分の発見です。その時々の状態によって、基本ポーズからバリエーションを作ることは自分の体調、ポジションを知ることができるばかりでなく創造と、自分の発見という楽しみがあります。

【結果として】

気持ちもリラックス、呼吸もゆっくりになり無心の《空》の状態になります。臍から尾てい骨までがしっかりして体重もなくなったような感じになり、身体が浮く感じがします。血管が弛み、血液の循環がよくなり、交感神経、副交感神経のバランスがとれ心身のゆがみが治ります。

●「かなさ・あたらさ」の島

 東シナ海にぼっかり浮かんだ珊瑚礁の上に、透けるような青空と、わずかばかりの土が恵まれて、人が生きていける島になった。上空から見下ろす島は、列島の名花、黄色い花を咲かせるゆうなの乗を浮かべたような小さな丸い島である。遠くにいて思う古い記憶にはやはり無条件に心がやすらぐ。とりわけ、人情味に溢れた老人たちの達観した笑みには、ひそかに「ネイティブ・スマイル」と名づけてひとりごちている。人生の難難も、このネイティブ・スマイルで切り抜けるからだ。

 島のてっぺんでも海抜五十メートル程度の浅い島である。三六〇度の水平線は、空と海の綴じ目のようで、幼な心にも、海に閉じこめられた圧迫感はときおり恐怖を感じさせた。孫の不安をはぐらかそうと、祖母がそっと耳打ちしたことは「みらい・かない」ということばであった。あの綴じ目の向こうから、この世の宝と幸せがやってくるのだと教えられた。それが「ニライ・カナイ」という、沖縄に島々に伝わる、神と福の通路だという言い伝えであることが分かったとき、稚い誤解に得意を感じた。それまでも、水平線の向こうは、私にとって、未来がかなう夢の通路であったから「ニライ」でも「みらい」 でも不都合はなかった。

 貧しくはあったが、沖縄の島々に伝わる「かなさ・あたらさ」の天に通じる心情が、この島にも根を張っていた。ことさら、幼い子どもを「クガニ(黄金)」と称して心を注いだ。

 この、幼い子どもたちへの慈しみを通して育ってきたのが「かなさ・あたらさ」の文化である。「かなさ」とは、心が憂いを含んでどこまでも伸びていく愛情である。「あたらさ」とは、天の声を聞きたいと願う魂の摂理である。

 亜熱帯地方独特のシャーマニズムが、列島のここ彼処に見られ、人生の節目にその効力を発揮する。学歴、社会的身分、財力にかまわず、この島の老人たちには、神と自我とを区別する基準が具わっているようである。天の計らいに異議申し立てをしないのも老人たちのたしなみである。「天は恵みを与え、地は潤いで満つ」ためにあるのである。長い日照りにひたすら耐え、家屋を吹き飛ばす風に黙々と後かたづけを始めるのである。老人たちの魂は、やはり、天と垂直なのだ。

 昔、福木の防風林は、夜になると霊界との境になり、近づいてはいけない距離であった。霊的な世界との調和と節度がこの島にはずっと続いていたのだ。

 この島で過ごした一二歳までの歳月を誇りに感じている。そのころ魂の恩恵を授かったようで感謝である。今でも、人生に挫けそうになったとき、心に浮かんでくる島の光景を感じるだけで大きな慰みをもらえるのが不思議である。

 大人たちが稼いでいる問、幼児の私が放っておかれた場所は、松林の木かげであった。昼寝に飽きても、退屈な時問を、そこで過ごさなければならない暗黙のルールを幼い心は知っていた。あそび道具は小枝や木の葉だった。「松林のひとりぼっち」は、私の現在の生き方や価値観の原点になっている感がある。

 松の下の柔らかい地面は、天然の落書き帳であった。梢の先で、思いつくだけの線や記号を描いて喜んだ。意味不明なのがちょっと不満だった。ノートの余白が無くなると寝ころんで青空のキャンパスに向かって指文字をなぞった。

 いつか、雲の隙間から天と地をつくつた人が現れて、記号の謎解きがされる。本気にそう思っていた。その秘密は、かまってもらえない退屈や孤独を慰めると同時に、不思議なときめきとして今でも郷愁とともに残っている。落書きの記号の謎は、あれから半世紀を過ぎようとする今でも、私の心に張りついて魂を促し続けている。

 天に通じる「あたらさ」の精神と、地に伸びる「かなさ」の心情を教えてくれた郷里は私の誇りであり、心の宝物でもある。

 今年もまた、「慰霊の日」が近づいてきた。半世紀前に筆舌に尽くせない悲しみを吸い込んだ土地は、いまやっと自立を始めた。人生に病み疲れた人々の心を癒す土地として、内外の多くの人々の心に涼風を送っている。悲しみが「土地の力」となって魂を購っているようにも感じる。

 この地球でいちばんなにが大切かを思い出させ、確認し合う日として、県民は一日静かに平和について内省する。また、本島最南端の岬まで、一歩一歩、足で祈りを稼いでいく巡礼の行列もできる。

 平和を願わない人はいないはずなのに、信じ難い、悲惨な映像は毎日の日課のごとくに、団欒の食卓を直撃する。重苦しく沈鬱な思いの中で、気持ちもどんよりしてやり場を失ってしまうこの頃である。さらに、怖いのは、深刻な事態が度重なるにつれ、鈍く怠惰になつていく心の理性である。

 保育園の幼い子どもたちでさえ、仲よく遊ぶことが人生の重大事項であることを知っていて、「○○ちやんが仲よくしない!」と、悲しみを訴えてくる。子どもたちの率直な心は、平和が、この地上の大切なものであることを知っているのだ。

 生命の源流から、こんこんと湧き出る知恵は、人生を健やかに過ごす工夫を凝らして余る恵である。子どもたちから発せられる、人生の過ごし方のメッセージに心静かに耳を傾けてみたい。

”いのちの教育”シリーズは、人生を健やかに過ごしたいと願う、人々の心に届ける自己教育の教材である。プログラムは今、地元で静かに流れ始めている。

 
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